首都メンフィス、継続20年。
支配地はメンフィス周辺とデルタ地帯の一部に過ぎず、デルタ地帯の多くはアジア人に乗っ取られ、上エジプトでは各地のノモスが独立していた。マネトの記録によると、70日間に70の王が在位したという。
第9王朝の後継。9と10に分かれているのはマネトの記述によるもので、なぜその様に分類したのかは謎。
テーベに成立した第11王朝と対立し、激しく争った。「ケティ3世」の時代、第11王朝の王「アンテフ2世」による攻撃があり、一時は上エジプト第10州までが第11王朝の支配下に落ちた。しかしケティ3世はアシュートの州侯「テフィーブ」の協力の下でこの攻撃を退け、逆に南下してアビュドスを占領した。この成功を背景に第11王朝との間に元のアビュドス北の国境線で停戦するという合意を結び、その後は友好関係の構築に尽力した。
こうして南方国境を安定させると、ケティ3世は下エジプトの統制回復に力を注ぐべく軍を北に向けた。海岸に至るまでアジア人を撃退し、彼らによって破壊された土地は行政区に分け、都市を築いてアジア人を撃退する為の兵士で満たした。
ケティ3世はまた、王子「メリカラー」に『メリカラー王への教訓』という文書を残し、王の責務や王権観、倫理、政治的な問題、その状況下で取るべき政策について論じた。かなりの部分が現存しており、当時の歴史を知るための第一級の史料となっている。教訓の中ではアジア人の対策法がかなり具体的に記されていて、それとは別に南方(第11王朝)との間の友好を保つように述べられている。(曰く、南方からは絶対越えてこないらしい。信じていいの?)
ケティ3世の没後、メリカラーが王位についた。メリカラーは下エジプトに侵入していたアジア人に対抗する為にメンフィスに1万人の兵士と役人を駐留させ、更に下エジプトの防備を強化する為にメリカラー自らが建築事業を強力に推進した。
彼は先王の教訓を守って南方と争うことはしなかったが、南方の側から戦争を仕掛けられ、やむを得ず開戦した。第10王朝は劣勢に回り、これを見たヘルモポリスなどの第10王朝の有力州侯が次々に第11王朝に寝返り、前2040年頃、本拠地ヘラクレオポリスは陥落、第10王朝最後の王(メリカラーの後継者。名前は不明)が最終的な闘いに負け、上下エジプトは第11王朝のものとなった。
(歴代王)
メリハトホル→ネフェルカラー8世→ケティ3世→メリカラー→?
第18王朝時代のパピルス紙(古代エジプトで作られていた紙)の写しが残っている。
(以下抜粋)
「力あるために話術に巧みであれ。人にとって舌は剣であり、言葉はいかなる戦闘にもまして勇敢である。心聡き者を誰も出し抜くことはできぬ。」
「賢王の知識を知る者は彼を攻撃せず、いかなる禍も彼に近づくことはない。」
「パンとビールだけで満足しとけ」
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